
開学当時の獨協大学キャンパス

DUAFC黎明期の歴史(1964~73)
1期 1964年入学 山崎陽臣氏,北田三喜夫氏,佐藤哲男氏らによりDUAFC設立される。
2期 1965年入学 全員途中退部
3期 1966年入学 清峰直樹氏、本山博文氏 山中理隆氏、岡本嘉晴氏、若井 孝 氏,
大村 利男氏、後藤仁氏、日比野寛氏、西井行男氏,小守尚之氏
4期 1967年入学 山口雄三氏、近藤次郎氏、大沢俊孝氏、東隆三氏、徳尾政光氏、
目黒猛雄氏,阿部氏,長崎氏,服部氏、
5期 1968年入学 三好通氏,木下史郎氏,野田英志氏,大宅章氏,飯田孝氏,平沢一幸氏,植野茂氏, 渡辺信行氏,木之本英夫氏,飯島太郎氏,正木研二氏,戸井田進氏,茶谷氏,加藤氏, 慶田氏 _飯塚氏,佐藤氏,有吉氏,武田氏
6期 1969年入学 渡部隆夫氏,山本 雄一 氏,今村孝雄氏,今井 愼佳 氏,冨川 勇氏, 小林 秀一氏, 茂在 康嗣氏, 新海勉氏,和田裕二氏,松永博氏
7期 1970年入学 河久保哲也氏,岩崎新治郎氏,田嶋英明氏.西野雅英氏,服部弘二氏,
品田裕司氏,古川和宏氏,岩田典久氏
部 長 :マック横井先生(`64~66) 鈴木康治先生(`67~`72)
監 督 :中島能也氏(’66,’67,’68,) 北田三喜夫氏(’69,`70)清峰直樹氏(`71,`72)
ヘッドコーチ:松本武徳氏、藤本邦明氏(`67,`68,`69,)清峰直樹氏(`70)若井孝氏(`71)
大沢俊孝氏(`72)
獨協大学・アメリカンフットボール部の歴史
創部メンバー・山崎陽臣さんの談話より
1964年に創設された獨協大学は4月に獨協高校に於いて入学式が行われ、現在地における、開校は7月からでありました。
その様な中、アメリカンフットボール部は一期9名の新入生で創部しました。 体育部長の横山先生に部長を引き受けていただき、体育会からのスタートできましたが、その横山先生が事情により、その後退職され、部内事情が悪くなり、2名が退部してしまい7名での再建をはかりましたが、次の学年への進級は自分一人で6名が落第となり、梶野先生にご迷惑をかけ、1965年の入学生待の状況になっていました。
1965年には二期10名の新入部員がありました、10名中9名が浪人で1期と同年齢であった為、微妙な人間関係があり合宿中も数多くトラブルがあり、かつ経済的な危機も抱えながらも、他の部との繋がりや他校との繋がりで道具についてはなんとか揃えることはできました、しかし人間関係のトラブルは収まらず2期全員が抜けることになります。
この時、部長は横山先生→土方精美名誉教授→梶野先生→ギリアン宣教師→マック横井先生とこの2年間を繋いでいただきました。またこの間 ICUや武蔵野美大とのスクリーメージや慶応ダックスとの練習試合もQBの遅刻があったり、試合にならず内紛の火に油をそそぐ形となってしまいました。
1966年には若井孝氏、本山博文氏、後藤仁氏、大村利男氏、山中理隆氏、日比野寛氏、西井行男氏、淵上氏らが入部し、2期で入学した平沢氏の兄上(東大監督)の紹介で関学卒の中島能也氏を監督に、そして松本武徳氏にヘッドコーチをお願いして、秋季より本格的参戦し関東リーグに14番目に加盟(3部4校-獨協・成蹊・関東学院・國學院)となりました。 この年の戦績は0勝3敗とほろ苦いスタートではありましたが、ようやく試合が出来るチームとなったのであります。
この戦績をバネに1967年には、東大より藤本邦明氏にコーチをお願いすることが出来、同時に盛岡から着任された鈴木教授に部長に就任していただきました。この年藤本新コーチのアイデアで前年に入部した、伸び盛りの戦力を分析した結果、当時リーグNo1の日大と同じアンバランスT Formationの導入を提案、加えて強肩の清峰直樹氏がQBとして加わり、山中理隆氏をPassRecever として、3部での優勝を目指したのであります。
この年の4月には、4期(山口雄三氏、近藤次郎氏、大沢俊孝氏、東隆三氏、徳尾政光氏、 阿部氏,長崎氏,服部氏、目黒猛雄(近藤,徳尾,目黒は68年に入部))らが入学しました。この様なリニューアルを果たし、1967年3部リーグ(獨協・東海大・明学・國學院・拓大・東経大)、戦績は3勝2敗と好成績でした。
そして、この年DUAFCの大きなFactorの一つ “Cheerleader”が誕生しています。(DUAFC”Cheerleader”の歴史については別途コーナーを設けています。)
翌1968年にはヘッドコーチは松本武徳氏より藤本邦明氏(東大)に交代され、4月には 5期(三好通氏、木下史郎氏、野田英志氏、大宅章氏、飯田孝氏、平沢一幸氏、 植野茂氏、 渡辺信行氏、木之本英夫氏、飯島太郎氏ら)が入学と同時に入部するという大所帯のクラブとなったわけであります。部長は鈴木先生、監督:中島能也氏、HC:藤本邦明氏の布陣でリーグ戦に望むことになりました、なお、2部リーグ並列でAブロック(獨協・成蹊・中央・学習院)からの参戦でしたが、順位決定戦を含めて5試合で戦績は4勝1敗と好成績でありました。
1969年、6期(渡部隆夫氏、山本 雄一 氏、今井 愼佳 氏,今村孝雄氏,冨川 勇氏、小林秀一氏、茂在 康嗣氏、新海 勉氏,和田裕二氏らが入部)。
監督には、北田三喜夫氏が就任されました。
2部リーグ並列でDブロック(獨協・明学・中央・一橋・大東文化・専修・國學院)で戦い順位決定戦を含めると6試合で3勝3敗の成績でした。 そしてこの年関東学連内部にトラブルがあり、その結果翌`70年には、一部二部の垣根が取り払われ並列の4リーグが誕生し、獨協大学は獨協・明学・成城・成蹊・青学・学習院の6校でさつきリーグが編成されて、秋季リーグ戦を戦うことになりました。
この年、春は監督北田氏、ヘッドコーチ藤本氏、主将が山口雄三氏でスタートしましたがHC藤本氏が仕事の都合で退任、清峰直樹氏と後藤仁氏そして若井孝氏の3コーチ陣で秋季リーグ戦を戦うことになり、夏合宿は長野県の栂池高原で行いました。
戦績は4勝1敗の好成績でしたが宿敵明治学院に勝てず、次に無念の思いが託されました。
1971年は部長:鈴木康治先生、監督:清峰直樹氏、ヘッドコーチ:若井孝氏、主将:三好通氏の体制で臨み、夏の合宿は栂池高原でリーグ戦に備えられた。 1971年は部長:鈴木康治先生、監督:清峰直樹氏、ヘッドコーチ:若井孝氏、主将:三好通氏の体制で臨んだ。夏の合宿は栂池高原で行われた。リーグ戦は4勝1敗でシャットアウト試合が3試合と強力ディフェンスを誇ったが、宿敵明学には敗れ、またもや次年度に無念の思いを託すこととなった。 三好主将のコメント 最終戦の敗戦は春にとても順調だったのでスキが出たと思われ、先輩方の期待に応えられず残念ではありましたが、充実したシーズンであったが、創部以来、4年生が多い学年で各ポジションを占めている期でしたので、チーム全体の絆が弱くなり、2年続けて打倒明学ができなかった。 この年の春、日大フェニックスの一本目と世田谷区桜上水の日大グラウンドで練習試合が実現した。69年、70年と二年連続で甲子園ボウルに出場。伝説のQB佐曽利氏を擁し、ラインには湯村氏がいた。試合は6-56の敗戦。当時、下部の大学との練習試合では日大が100~130点を奪って零封するのが当たり前だったから、獨協の大善戦と言えた。一本は平沢一幸氏のランプレーで奪ったもの。試合後、篠竹幹雄監督が「バッカーは1部の選手みたいに動きがいいね」と語ったのは、渡辺信行氏のことだったという。
1972年は、関東学生リーグで準加盟校だった桜美林大学が新たに「さつきリーグ」に所属を移し、明学、青学、学習院、成城、成蹊、桜美林、獨協の7チームでリーグ戦を展開することになった。
獨協は部長・鈴木康治先生、監督・清峰直樹氏は変わらず、ヘッドコーチは前年まで務められた若井孝氏(3期)が退任し、代わって大沢俊孝氏(4期)が就任した。
前年度の4年生10人がごっそり退団したため、苦しいチーム作りを強いられることになった。とくに強力メンバーのそろっていたラインの痛手は大きく、急ピッチに強化しなければならなかった。
このシーズンも選手数が豊富ではなかったため、ツープラトン・システムは完成できず、多くの選手が出ずっぱりの態勢で試合に臨むことになった。そのためには4クオーターを戦い続ける体力が求められ、スタミナを養うため厳しい練習が課せられた。とにかく走り、多少の怪我でも練習に参加していくような、強い精神力が養われていった。
夏合宿は1970年から白馬岳東麓の栂池高原に移った。宿舎は、スキーゲレンデの中腹にあるロッジ「ラ・ネージュ」を貸し切って例年にも増してハードトレーニングが展開された。
この当時のプレーは変則Tフォーメーションが主流。’69年に当時のヘッドコーチ、藤本邦明さんが考案した独自のDots・フォーメーションを使用していた時期もあった。これはラインが極端に広がった形でシフトし、穴が大きかったためバックスは走りやすい部分もあったが、いかにラインが相手を止めておけるかが課題だった。一軍は基本的に全プレーに出場していたため、オフェンス、ディフェンス、パント・キッキングのフォーメーションを頭に入れておかねばならなかった。
リーグ戦の結果は3勝3敗。やはり、明学には敗れてしまったが、次の代へのバトンタッチを確実に行い、翌年、宿敵明学を倒す事ができた。(`71`72は6期小林秀一氏 筆)
1973年、関東学生アメリカンフットボール連盟は、並列リーグとなって4年目のシーズンを迎えた。 この年、関東学生リーグはローズリーグに改称。DUAFCは引き続き「さつきリーグ」で青学・成蹊・明学・桜美林・成城・学習院・獨協の7チームによるリーグ展開をした。 73シーズンは長年「打倒」明学を標榜してきたDUAFCが初めて勝利することができたシーズンであったが、3勝3敗で4位に終わりました。 (DUAFC創部60周年記念誌の`73記事より)